第二章 燠

三ノ項


 断崖が長大である為に、墜下ついかする少女の身体は、まだその淵には辿り着かない。 少女は岸壁の隙間に根を張る木々の枝を掴んで、これ以上の落下を防ごうとも考えたが勇気が出ず、落ち行く重力に身を任せる事を選択した。
 それが幸いして、少女達は無事に断崖の底へ到着し、落ち葉を派手に散らして身を枯葉に埋めた。 堆積した落ち葉の山に運良く着地出来たのだが、落ち葉にすっぽりと埋まった少女の身体は、中々枯葉の表面に這い出られず、顔を出す事が叶わない。
「けほ…! 枯葉が…こんなに…!」
 やっとの思いで顔を、落ち葉の山から覗かせた少女は、口に入った数枚の枯葉を吐き出して辺りを見回した。 崖上から見た断崖の底は、漆黒の闇に思えていたが、満月を目前に迫る月光の強い輝きで、意外にも自分の周囲程度なら視認が出来る。
「は!お侍さま !!」
 碧眼の男の存在を思い出した少女は、記憶の音を頼りに男が転落した場所を探し、身を埋めていると予想される場所を、犬が穴を掘るように必死に枯葉を掻き分けた。 そして枯葉に埋もれる男の上半身をどうにか掘り起こし、少女は安否を確かめようとしたが、男の肌は既に土気色で、今に息絶えそうなほど弱り果てていた。 触れた頬の体温は見る間に冷え切ってゆき、その著しく衰弱した男の容態に、少女は死を連想した。
 一度心に過った死への不安は、辛うじて保っていた少女の気丈な精神を折り、遂にその瞳にはせきを切ったように涙が溢れ、丸みを帯びた頬を止めなく伝った。
「やだぁ…死な…死なないで…っ! お侍さまぁぁ…!! うえぇえーーんっ!!」
 碧眼の男の胸にすがり少女は泣き崩れ、その号哭ごうこくは岸壁に反響し、この縦穴に棲まう鼠や猪などの動物が、揃って逃げ出してしまう程の強烈な泣き声であった。
「おい…」
 少女の背後にある盛り上がった枯葉の山から犬神は首を出し、少女の声量に顔をしかめながら声を掛けた。
「死んじゃやだぁあ !! 目を覚ましてぇええ !!」
 だが少女は背後にいる犬神には気が付かず、大粒の涙を流しては男の身体を揺すった。
「やかましぃわぁああ !! 死んどらんじゃろうがぁああ !!」
 枯葉の山から一気に這い出て、犬神は少女の背後から負けじと声を張り上げたが、少女は男の胸に顔を埋め、更に大声で泣き始める。
「黙れぇええ !! 喰らうぞわっぱ !!」
 遂に犬神は少女の目の前で牙を剥き出し、頭に乗った落ち葉を散らしながら、少女へ吠え怒鳴り散らす。
「うぇえーーん !!」
 しかし、男に縋り泣く少女は犬神に見向きもせず、犬神の怒声はいとも簡単に少女の泣き声に掻き消された。
「泣いておれ」
 一向に泣き止まぬ少女の相手をする事が、急に馬鹿馬鹿しくなった犬神は、少女にそっぽを向き、落ち葉の上で丸く身を伏せた。 だがすぐに、一度己の柔らかい手足に置いたあごを上げ、再び顔を起こすと、耳をぴんと角立て、木々が生い茂る暗闇の奥を凝視した。
 辺りには木々と岸壁から剥がれ落ちたであろういわおや岩石ばかりで、 持ち前の夜目を利かせて犬神は暗闇を眺めるが、視界を遮る障害物が多い為、奥を見通す事は出来ない。 それでも何かが此方こちらへ向かって来ると、獣の直感が犬神を掻き立て、落ち葉に休ませていた身を起こし、暗闇の奥から感じる気配に身構えた。





 碧眼の男は夢を見ていた。

 柳枝垂やなぎしだれ、透き通る泉水の水面みなもに、満月がえいずる美しい庭園。
 それは男が、一度も眺めた事のない景色だった。 しかし不思議と、泉水の水面に浮かぶ蓮の花には心がざわめき。 揺れる水面の満月に根を下ろしたように、蓮はりんと咲き誇り、月へ花弁を向けるその姿はとてもはかなく美しい。

 しかしどれ程美しけれども、柳の傍らに腰掛ける一人の女は、蓮の花も、飾られた庭園の情景も、相感あいかんせずと心にとめて見てはいない。
 柳に身を預け、泉水にしなやかな足をつる黒髪の女は、背から細流のように流れ落ちる血と、その血をなぞる艶めく長い黒髪を地に垂らし。 そうしてただずっと、死を前に月光を映し出す、きらめく水面を見詰めているだけなのだろう。

 女の傍で佇む青年すら、女がどの様な面立ちで水面を見詰めているのか、覗き見る事は出来ない。 だが女が背を向けていようとも、今紫いまむらさきの羽織を着た青年には、女の心は透けて見えていた。
悠久ゆうきゅうを得ても尚……、瞋恚しんいほむらはまだ…消えらぬのですか…』
 長い睫毛を伏せ、憂愁を帯びた面立ちで女の背へ尋ねた青年は、まるで風をいざない、止まった時を再び動かしたかのようだった。

『…このまま人として果てるか……人に仇なす鬼となり…、お前を殺すか』
 青年の問い掛けに、女は衰弱した声色で淡々と、言葉に情動すら込めず無気力に声を発した。
 女の返答に青年は眉一つ動かさず、風に揺らぐ柳と共に黒髪をなびかせ、切れ長の二重のまぶたから覗かせる澄んだ瞳は、変わらず真っ直ぐに女を見据えている。
『…選ばねばなりませぬ。今宵限りで。応へいらえたまわりとう御座います』
 今紫の羽織の青年は、丁寧に労りを込めて女へ言い、その返答を待ったが、女が口を開く事はなく。悠久と感じられる程の静寂に、再び辺りは支配された。
 月夜に佇む青年と女の姿は、時を封じた一枚の大和絵のように、ただずっとその場に在り続けるかに思える。 しかし、青年は女から視線を逸らすと、滑らかに刀の柄に指を添え、此方を瞬時に振り返った――




白影あきかげ…!」
 顧見かいまみた青年と視線が重なり、碧眼の男は咄嗟に青年の名を呼んだ。
 だが白影あきかげという名の、今紫の羽織の青年も、黒髪の女の姿も、あの美しい庭園の景色に連れ去られたかのように消えてしまった。 碧眼の男の視界には、澄み渡る夜空に満天の星が広がるのみで、その秋空からはまるで星が降るように、落ち葉がはらはらと舞い落ちてくる。
 夢だったのかと考えながら、男は自身に降り注ぐ紅葉をぼんやり眺めていたが、再び眠りに落ちたいという欲求に抗えず、瞳は勝手に瞼を閉じた。 しかし、このままではいけないと、男は襲い来る睡魔を振り払い、上向きに横たわる頭を動かした。 その拍子に、男の頭部を支えていた落ち葉が崩れ、男の耳をくすぐり。 耳に流れ込んだ枯葉の音で、自分は落ち葉に埋もれ、その上で眠ってしまったのかと、男はようやく己の状況を理解した。
「まったく…。其奴そやつと共に、朝を迎えるかと思うたわ」
 頭上から親しい者に声を掛けられ、碧眼の男は身を横たえたまま首を上げると、岸壁に突き出た岩上に寝転がり、男を見下ろす犬神の姿がある。 月白げっぱく尨毛むくげを月明かりの元で輝かせ、全身から淡い光を放つ犬神は、理解が及ばずぼんやりと見上げる碧眼の男の腹部を何度も鼻先で指し示した。
 疲労で鉛のように重い身体が、感覚を鈍らせていたのか、犬神に指摘されて男は漸く、自分の冷え切った身体の腹部に、ほのかに温もりを感じた。 己の腹部に視線を落とすと、そこには男の腹へ身を預ける形で、幼い少女が静かに寝息を立てている。 男はこの頭巾を被った少女に見覚えがあり、村を立ち去った際に別れた筈だと記憶を辿った。が、夢の情景に塗り潰されてしまったのか。 最後に蟒蛇うわばみへと刀を投じた後の、己の行動を思い返す事がどうしても出来ない。 この様な異体いていだからこそ、心優しいこの少女は心配のあまり自分を追って来たのかもしれないと、碧眼の男は身を起こす事を諦め、少女を目覚めさせぬ様そっと頭巾の上から、その小さい頭を撫でた。

 静寂しじまの中、ふと少女の頭を撫でていると、瞼を腫らして眠っている少女の左頬に、赤みが差している事に男は気が付いた。 人を殴る際に一番手近な部位が顔である事は多い。 見覚えのないあざに男は眉をひそめ、自分が意識を手放している間に一体何があったのか、闇夜に切り立つ岸壁を見上げ思慮に耽った。
 岩肌に程近い位置で自分は寝転がり、身体は枯葉の山に埋もれ、少女には見覚えのない痣がある。
 様々な要因を繋ぎ合わせ、自分は少女と共に岸壁から落とされたのではないかと、男はすぐに状況を理解した。 そして更に、頬を撫でる風の温度と、夜空にちりばめられる星の数や位置で、今は真夜九まよここのつ頃だと、男は簡単に時刻と方角を割り出した。
「お侍…さま…?」
 男が思考を巡らせているうちに、目を覚ました少女はいつの間にか、男を寝惚けまなこで見詰めている。
 碧眼の男は少女の頭を撫でる手を止めずに、黙って少女を見詰め返し、鬼面が取り払われたその顔立ちは、常に何処か物悲しく寂寞せきばくとした印象を抱いてしまう。 だが少女を撫でるこの時ばかりは、残涙の残る少女を労っていると感じられるほど男の表情は穏やかだった。
 見詰め返される澄んだ碧眼の瞳を凝視するうちに、次第に頭が冴えてきた少女は、突然小動物のように素早く身を起こした。 そして、男が生きていた驚喜きょうきからその瞳は潤み、徐々に少女の頬は興奮で赤らんでくる。
 少女は昂ぶった様子で、男へ口を開こうと空気を吸い込んだ途端、少女の胃袋は轟音を発し、その音は崖底に鳴り響いた。 大の大人に負けず劣らぬ腹鳴ふくめいに、少女の顔は一瞬で真っ赤に染まり、恥じらうあまり背中を丸め、腹を押さえて俯いてしまう。
 突然鳴り響いた低音に、未だ意識がぼんやりとしていた男は、完全に脳が覚醒した様子で、数度瞬きを繰り返し、紅潮こうちょうする少女の顔をきょとんと見詰めた。
「ご…ごめんなさい…!」
 居たたまれなくなり少女は目を潤ませ、男から離れようと枯葉の山を掻き分けた。 しかし、そんな少女のか細い腕を男は握り、その場に引き留め、未だ枯葉に埋まったままの己の身体を、何やらごそごそと探り始めた。 男が身体を動かす度に、枯葉の乾いた音が鳴り、荷を探る左肩から段々と身体は、落ち葉の中へ沈んでゆく。
 漸く腰の帯に括り付けていた荷を取り出せた男は、枯れ葉の海から腕を引き抜き、少女の前に何かを差し出した。 男の差し出した腕からは、落ち葉たちがはらはらと滑り落ち、その指先には可愛らしい鮮やかなまり柄の入った、小さな巾着袋が握られている。
「え…?くれるの…?」
 少女の問いに、男は無言で頷き上半身を起こすと、落ち葉に埋まっていた男の片膝が顔を出す。 男の施しを遠慮からか直ぐに受け取らない少女へ、男はもう一度頷くと、ゆっくり贈り物を少女へと近付けた。
 好意的に差し出される巾着を見て、少女はやがて両手を伸ばし、その小さい掌に乗った巾着袋は丁度良い大きさで納まった。 贈り物を受け取り、今度はちらりと男を見詰める少女へ、碧眼の男はどうぞという顔で両眉を少し上げた。
 男に促されるまま、少女は丁寧に袋の口を開けると、二重の和紙に包まれた、見た事のない小麦色の丸い塊が、ぎっしりと袋の中には詰まっていた。 その一つを少女は取り出し、自身の親指ほどのそれを眺め、これは何かと窺うように再度男の顔を見詰めた。
「ワシのクイキーっ!!」
 少女が取り出した茶色い塊を見るや、犬神は感情的に立ち上がり、大声で少女を威嚇した。 だが少女の身体が驚きで跳ね上がったのを見て、犬神は瞬時に怒りを静め、暫し沈黙した後に岩の上をくるりと一周すると、先程と同じ姿勢で座り直した。 そして余裕を表わす様に尾を数回優雅に振って見せ、今方いましがた叫喚きょうかんをなかった事にした。
「…まぁよいか。美味いぞ食え」
 いじけた様子の犬神が言った通り、袋を開けてからずっと、香ばしい食欲をそそる甘い香りが、少女の鼻先を擽っている。
「…ありがとう…!」
 その香りに釣られ再び腹が鳴っては恥じらいがある為、少女は二人に礼を言うと、上品に一つだけ口の中に丸い塊を放り込んだ。 口の中で歯を一度立てただけで塊は簡単に砕け、噛む度に小麦や大豆、栗の風味と砂糖の甘みが口一杯に広がり。 食べた事のない菓子の味と食感に、少女の顔には自然と笑みが溢れ、口に入れたたった一つを時間を掛けてじっくりと味わった。
「甘い!さくさくで美味しい!」
 少女は菓子の美味しさに、すっかり興奮した様子で身を乗り出し、弾けんばかりの笑みで、男へ喜びを伝えた。 すると、碧眼の男は思わず顔が綻び、初めて少女に笑顔を見せた。
 自身に向けられたその穏やかな笑みに、少女の鼓動は跳ね上がり、顔に沸き立つほどの熱を感じた。 そして、紅潮を恥じらう少女は胸に巾着を抱えたまま、慌てて男へ背中を向けた。
「食わぬなら寄越せー!! ワシのじゃー!!」
「きゃぁ――はは! くすぐったい!」
 少女が鳴り止まぬ鼓動を静めていると、よだれを垂らした犬神が突然背中に飛び付き、少女の掌には巾着に入っていた半量のクッキーが溢れた。 少女にやると言っていた筈だが、犬神は少女の掌に溢れたクッキーを舌で器用に貪り始めた。
 何度も犬神の舌に掌を舐められ、笑い転げる少女は、美味い美味いと唸り食う犬神の声に、ふと親しみを覚え、瞳を輝かせた。
「その声! お犬さまがずっとおしゃべりしてたの? 可愛い!」
 野衾のぶすまと蟒蛇へ啖呵を切っていたのは、碧眼の男ではなく。 首巻に扮していた犬神の方だったのだと気が付いた少女は、命を救われた喜びが再燃し、嬉々として犬神の柔らかい身体へ抱き付いた。

 幸せそうに犬神の毛を撫でる少女を、微笑ましく眺めていた碧眼の男だが、生い茂る木々の向こうから何かの気配を感じ取り、じっと暗闇を凝望した。
 そう遠くない木立こだちから、鬼火のような赤い火の玉がゆらゆらと、乱雑に生え伸びた木々をかわし、此方へ向かって来ている。 その宙を揺らぐ火は、地面擦れ擦れまで降下し、岩々を照らしながら左右に屈曲して移動すると、やがて止まった。 そして、三つの巨石を挟む、まだ7m程の離れた距離にある小さな火は、唐突に碧眼の男達へ口を利いた。
「気が付かれたようですな」
「わっ!! だ、だれ !?」
 暗闇から聞こえた何者かの声に、少女は飛び上がり犬神にしがみ付いた。
 火は再び忙しなく上下し、草木を躱し、砂利を踏み鳴らす音を立てて、更に此方へやって来る。 宙に浮かぶ火が、足音を立てるなど、まず起こり得ない現象だろう。
 火の正体を察した碧眼の男は、覆いフードを目深に被ると、少女の小さな身体をやんわりと引き寄せた。 少女を抱き寄せたのは、危険から護るためであり、男が気を張り詰めている事は、少女にも伝わっていた。
 やがて先程より少し距離を近付けた火は、上空に高く上り、よく目を凝らせば火の下部は、長く細い木の棒で繋がっている。 そして長い棒は、ゆっくりと後ろへ下がり、その棒の先端にある小さな火は、ぼんやりと一人の男の顔を暗闇から浮かばせた。

 火に照らされた男の歳は、五十半ばだろうか。
 警戒のあまりじっと固まる二人に気が付いた中老の男は、少女達に柔らかい笑みを向け、その目尻には細かいしわが幾重にも寄った。 その男の顔は、腕に持つ松明で、薄気味悪くぼうと照らされているが、賊とは正反対に柔和な風貌である為、少女は全く恐れを感じなかった。
「良かったのぉ、お嬢ちゃん。 話しかけたんだがぁ泣きじゃくって、そのまま寝ちまったんでどうしようもなくてなぁ」
 中老の男は、不安定な足場を転ばぬよう慎重によろよろと踏み越えると、漸く枯葉の山に居座る少女達の元へ辿り着いた。 状況が飲み込めず不安げに見詰める少女へ、中老の男はにこやかに笑みを返した。孫を見るような穏やかな笑みを少女へ浮かべるその姿は、何処からどう見ても、気の良い農民の姿である。
 そんな農民が、何故人里からこれ程かけ離れた山奥の崖下にいるのか。 腑に落ちない碧眼の男は、中老の意図を探ろうと、暫く様子を見る事にした。

 碧眼の男が口をつぐんでいると、中老の男は視界を遮っている近くの低木の枝を片腕で掻き分け、努めて明るく一同へ言った。
「丁度 魚が焼けたんで、彼方あちらで一緒にどうですかい?」
 中老の農夫が、松明を持つ腕で指し示した漆黒の暗闇の中には、ぽつんと焚火の明かりが見え。その小高い山の上で灯された焚火の傍に、二人の男が腰掛けている。 中老が松明をゆらゆらと左右に振ると、遠い距離にあり親指ほどの大きさに見える焚火の男達も、ちゃんと此方に手を振り返した。
 縦穴の先客であるこの男達にも何か事情があるのだろうと、警戒を解いた碧眼の男は落ち葉を掻き分け、漸く少女と共に枯葉の山を下りた。 そして、男は少女の手を取り、一先ずはこの中老の男へ付いて行く事に決めた。

四ノ項へ


作者:嵬動新九 本文記載:2025/02/15

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