第一章 蠱獄
三ノ項
濃霧の中から不気味に鈴の音が響き渡り、その一定の節奏で鳴り響く鈴音は、
人が歩く足拍子なのだと、一同は次第に気が付き始めた。
そして橋板を踏む足音と、太鼓橋を覆う濃霧には、縦に伸びる黒影が浮かび上がり。
悪戯にも一瞬荒らかに吹き付けた秋風は、橋に積み重なる落ち葉と霧を吹き飛ばし霧向こうの、鈴の音を奏でる者の正体を突然明かした。
自然の風が気まぐれに決めた意外な訪れと、突如霧から現れた者の姿に、坂田一同は息を呑んだ。
舞い散る紅葉と風に怯む事なく、濃霧から姿を現したのは。
脹脛まである長い漆黒の合羽を翻し、
顔には朱塗りの鬼面を付けている細身で長身の男。
鈴を鳴らしているのは間違いなくこの男であり、
肩に垂れ下がる白犬の毛皮の首に赤い紐が蝶結びで結ばれ、その首輪に繋がれている2つの鈴から音色が発せられている。
霧が落陽の夕焼け空を薄らげ、紅葉が幻想的に散る最中。
男の面相を隠す鬼面の細工は牙を剥き恐ろしく、合羽に縫い付けられた覆いを目深に被った男は、一歩また一歩と此方へ向かって来る。
木々が擦れる美音と川音だけの静寂に響き渡る鈴の音は底気味悪く。
太鼓橋を渡る妖しい風体の男と、見見うちに距離が縮まっているにも関わらず、坂田一同は総毛立ち、鬼面の男に見入り動けずにいた。
橋の中心辺りに差し掛かった鬼面の男を、未だ絶句して眺める仲間を掻き分け、主を護ろうと万雷は薙刀を構えて一番先頭へと躍り出た。
「何奴ッ !! そこで止まれ !!」
空気を震わせ威嚇する万雷の大声に、鬼面の男は素直に歩みを止めた。
万雷の怒声を聞けば大抵の人間は逃げ出すのだが、この男はゆっくりとした身のこなしで地に屈むと、橋板に己の掌を誰かの手形に合わせる様にそっと触れる。
少しの異変も感じずに、この橋を再三渡った坂田達には、鬼面男のこの奇怪な所作は、まず理解出来ないだろう。
しかしこの男の眼には、橋板に血を擦り、力任せに引っ掻いて焼き付けたかの様な、異形の鬼の手形がしっかりと捉えられていた。
やがて男は、橋板から長い指先を離し顔を上げると、坂田一同をゆっくりと順に見渡し始める。
面を着けているため男の表情は読み取れず、その真意が測れない坂田は眉を顰め、取り敢えずはこの男の出方を窺うしかなく。
いつ何時も男の急襲に備えられるよう、全員が刀を持つ指先の力を強めた。
寸刻と待たず、淀みなく動いていた鬼面男の首が、突如静止する。
その眼差しは坂田に向けられ、その姿を捉えるや否や、刀に指を掛けて立ち上がり、男は足早に歩き出した。
先程の緩やかな調子を一変させ、歩を早め坂田へ迫り来る鬼面の男に、配下達は急いで陣形を崩し、坂田と男の間に素早く立ち塞がる。
「ええい !! 止まれと言っているのが分からんのか !!」
一番前に躍り出て、薙刀を構え万雷が牽制していようとも男は歩を緩める所か、前に身を少し屈め、抜刀の構えで此方へと迫って来る。
左腕で柄を握る鬼面の男が橋を渡り切ったと同時に、坂田一同は一糸乱れずに鞘から刀を引き抜いた。
「鈴に面……ッ――間違いない…ッ!!」
坂田の足下で丸くなっていた老人は顔面を蒼白させ、大口を開けて恐怖で顎を震わせながら鬼面男を指差す。
「ひぃいい !! 其奴じゃぁああああ !! 其奴が皆を殺したのじゃああああーッ !!」
唾を撒き散らし目を血走らせ、坂田の右足に縋り付いて乱心する老人の言葉が引き金となったのか。鬼面の男は刀を握った姿勢で、一気に駆け出し攻勢をかけた。
坂田へと真っ直ぐに迫り来る鬼面男の前方には、配下の男達が主を護るために壁となって遮り。
万雷が鬼面の男へと飛び掛かり、薙刀を振り下ろした事で、鬼面男の進行は阻まれた。
万雷の一撃を、鬼面の男は刀を鞘に納めたまま鍔で受け止め、互いに一歩も引かず競り合いは力比べの形となった。
「貴様が元凶かッ !! 妙な気配がしよるわ !! 貴様、鬼か !!」
剛力で鬼面男を橋まで押し返した万雷は男へ吼え。
片腕で重い一撃を凌ぐ鬼面の男は、万雷の怒声を鼻で笑った。
「それでも儺斬か。程度が知れる」
「おのれ !! 侮辱は許さん!鬼がッ !!」
挑発に近い鬼面男の言動に万雷は怒り、薙刀へ余力のあった力を込めると、更に男を橋へと押し返し、力を押し込まれて体勢を崩した鬼面男へ、万雷は薙刀を叩き付けた。
しかし、鬼面の男は簡単に身を翻しそれを躱すと、前方に傾いた万雷の左足に己の片足を引っ掛け、動きに一切の無駄なく足掛けを繰り出した。
足を引っ掛けられた万雷は、前のめりに体勢を崩し蹌踉めいたが、何とか体の平衡を保ち転びはしなかった。
だが男へ隙だらけの背を晒したその様は、いつ何時背に刀を突き立てられてもおかしくはなく。
勝敗は決したが、鬼面の男は万雷の背を斬る事はせず、左腕で万雷の薙刀の柄を掴むと、寄越せとばかりに引き寄せた。
前方に傾いていた体が更に前方へと引っ張られた事で、万雷の体は容易く俯せに倒れ。
万雷から奪った薙刀を鬼面の男は、片腕で器用に柄を扱い、肘と脇を滑らせ弧を描いて持ち直すと、反撃をされぬよう万雷の背を軽く踏み付けた。
「万雷 !! ――貴様ッ!!」
そのまま薙刀で首を獲られかねない万雷の危機に坂田は殺気立ち、救援に急ぎ向かおうと帯刀している2本の内、黒鞘の刀を引き抜いた。
そして、配下を救うために走り出そうと地を蹴った坂田だったが――
突如抗えぬ程の怪力で何者かに後ろ首を力任せに引かれ、坂田の小柄な体は盛大に後ろに傾き、左足は宙を掻いた。
後方へと身を引き寄せられるその一瞬に、視線の合った万雷の顔は強張り、目は見開かれ、大口で何かを叫ぼうとしている。
「若ァッ !!!」
坂田の背後を見て、叫ぶ万雷を切っ掛けに、配下達は漸く坂田の異変に気が付いた。
首巻が喉を締め付け、何者の仕業かと振り返った坂田の目に。
口角の皮膚が裂ける程の大口を開き、坂田の喉元へと喰らい付こうとする老人の姿が飛び込む。
鬼面の男を警戒するあまり、坂田の背後が手薄になっていた事を悔いる間もなく。
配下達は坂田を救おうと駆け出したが、既に首の皮膚に歯牙が迫るこの状況では、反撃が間に合う筈はない。
坂田は自身の喉が裂かれ、命尽きるであろう最後の瞬間まで老人を睨み付けた。
四ノ項へ
作者:嵬動新九 本文記載:2025/01/03
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