第一章 蠱獄
四ノ項
――坂田の体に痛みが走る。
だがそれは、喉元に喰らい付かれ生じた痛みではなく。頬を何かで強打された痛みである。
視界が大きく左に傾き、体は宙に浮かび。
背後を襲った老人共々、自分は吹き飛ばされたのだと、己を殴った人物――
鬼面の男が宙を舞う一瞬間視界に入った事で、我が身に何が起こったのか、坂田は判然と理解出来た。
牙を剥いた鬼の面に、漆黒の合羽をはためかせる眼前の男は、万雷の薙刀を華麗に使い熟し、坂田の喉に老人の歯牙が触れる寸前に、老人の頭部を打ち付け坂田の命を救った。
だが手元が狂ったのだろう。
誰よりも早く老人の正体に勘付き、穂で怪我をしないよう刃の無い石突を坂田へ向けて振りかぶり、老人の頭を強烈な一撃で打ち付けたまでは良かったのだが。
少し軌道のずれた薙刀の柄は坂田の頬にも接触し、結果頬を強打した坂田は、受け身も取れず地面を滑り派手に吹き飛んだ。
「若ァ !!」
打撃の衝撃で軽い脳震盪を起こしたのか、地面に上向きに倒れて、直ぐに起き上がる事の出来ない坂田へ万雷は叫び駆け寄った。
「貴様よくも !!」
主を傷付けられた怒りを露わに、少数の配下達は鬼面の男へと刃を向け、残りの配下達は豹変した老人へと、問答無用で刀を振り下ろした。
坂田と同様に、地面に倒れ伏していた老人は迫る刀を難なく躱すと、人間とは思えぬ動きで関節を撓わせ、四つん這いで人の間を掻い潜った。
足下をすり抜け逃げる老人へと、男達は次々と刀を突き刺したが、老人は蜥蜴の様にしなやかな動きでそれらを避け、狙いを外れた男達の刀は地へ深々と突き刺さった。
一同から逃れた老人は、年老いて黄ばんだ爪を銀杏の木に乱暴に突き立てると、獣が這う動態ですいすいと木を這い登り。
やがて木登りが、一行の手の届かぬ高さに到達した老人は、顔を背中に据えたかの様に、首を人間の脊髄では不可能な真後ろまで回し、不気味な笑みを浮かべて坂田一行を見下ろした。
木にしがみ付き老人の姿に為り変った怪物と、未だ得体は知れぬが主である坂田を救った鬼面の男。
この二者の登場に坂田一同は混乱を隠せず、男達は鬼面男へ刀を向け、頭上から此方を見下ろす老人と鬼面男を交互に見詰めている。
刀を向けられようと鬼面の男は、打撲で赤く腫れる頬を押さえて蹌踉めき立つ坂田の様子を、ただ黙って静観している。
状況が呑み込めず動揺する一同へ、老人は嘲笑うかの様な乾いた笑い声を発し、場の全員が首を揃えて声の主を見上げた。
「くく…そのまま殺し合えば、手間が省けたのだがなぁ…!」
そう明かした老人の皮膚はぼろぼろと剥がれ落ち、
皮膚を失った肌からは錆色の剛毛が姿を現し、腕には蝙蝠に酷似した翼が飛び出した。
長時間翼を仕舞い込んで窮屈だったのか、妖怪は翼を目一杯広げ数回上下に扇ぐと、満足そうに翼を折り畳み。
全身の皮膚が剥がれ落ちたその様は、一見すると鼯鼠のような姿をしているが、顔には猪に似寄る巨大な鼻が中心にあり、
下顎から伸びる鋭い牙が二つ、笑みを浮かべる口からはみ出している。
人の姿は霧が見せた幻だったのか。人の生き血を吸う野衾という妖怪の出現に一同は身構えた。
「見破ったのは…貴様が初めてだ…。高が人間如きに見破れるものか、貴様は一体何だ?」
未だ銀杏の木に張り付きながら野衾は、巨大な目で鬼面の男を矯めつ眇めつ観察している。
「下郎の妖に名乗る名はない」
野衾に一瞥もくれずに鬼面の男は吐き捨てると、左手に持つ薙刀を本来の持ち主である万雷へ投越した。
「化物め…!村人を何処へやった !!」
声を荒げ激昂する坂田へ、野衾は気味の悪い笑顔を浮かべ足だけで幹にぶら下がり、逆さの姿勢のまま大袈裟に口を拭う仕草を始める。
「喰ろうたに決まっているだろう。貴様の従者も美味かったぞぉ。久々の馳走だった」
野衾の衝撃の一言に、一同は揃って口を開きはっと息を吸い込んだ。
仲間を失った事実に泣き出し取り乱す者は一人もいないが、驚愕に立ち尽くす男達の顔は徐々に怒りに歪み。
野衾に隙を見せぬよう気丈な姿を保ってはいるが、男達の心に傷を負っているのは明らかだった。
「おのれッ!! 私の仲間を !!」
坂田の体は更に怒りに震え、憤激を宿した眼力で野衾を睨み付け、刀を構える坂田にもう隙はない。
主の赫怒に同調した配下達は、坂田の周囲を隙間なく囲い素早く陣形を組み直した。そしてその陣形の一番前に躍り出たのは、やはり万雷である。
「まぁ互いにこの結界から出られぬ身だ。諦めて餌になってはどうだ?」
逆さを向いたまま笑みを浮かべて言い放つ野衾の挑発に、坂田は殺気立ち歯牙を見せる。
その様子を更に愉快だとばかりに野衾は顔を歪ませ。
両翼を広げ全身の体毛を逆立てると、起き上がった体毛の隙間からは薄緑の煙が、まるで山の木々から立ち込める霧の様に一同に降り注いだ。
「ふざけるな !! 貴様はここで我等が斬る!人を喰らった罪を贖え !!」
坂田の怒号を心底つまらないという面様で野衾は坂田を見下ろすと羽を畳み、いつでも飛び立てるよう前足の爪を木に突き立て、威嚇の姿勢へと変えた。
「つまらぬ事をほざく。まずは貴様から生き血を啜ってやる」
姿勢を後ろへと引き、今にも飛び掛かり襲い来るであろう野衾に警戒する一同だったが、刀を地へと落とす異様な物音に、一同の注意は不意に逸れた。
一同の視線は音の出所である、坂田の後方を護る仲間の一人へ注がれ、戦いの最中でありながら男は、確かに刀を地面に落とし膝を付いている。
額には冷や汗を滲ませ顔を苦悶に歪めるその男は、必死に歯を食いしばり落とした刀を拾い上げようとするが、指が強張り上手くは行かず、体を保つので精一杯な様子だ。
見るからに体調を崩した仲間を助け起こそうと、隣にいた仲間の一人が男の肩に触れたその横で、また一人。仲間が呻き刀を落として地に膝を付けた。
これらを皮切りに膝を付く仲間は二人の男に留まらず。続々と坂田の配下達は地面に崩れ、一様に苦しみ呻き声を上げ始める。
そして異常は年嵩な古兵だけに限らず、年若い少年にも訪れた。
地面に膝を折る事なくしっかりと両足は身体を支えているが、仲間と同様に冷や汗を掻き、少年の左腕は小刻みに震えている。
鳥什丸は不調をきたす仲間達の容態と、自身の指先を眺めて眉根を寄せた。
「何だ…?身体が痺れる…!」
呟いた瞬間、鳥什丸は不意に顔を上げ、事の重大さを訴える眼差しで坂田を見詰めた。
「――まさか…!毒霧か!吸うな !!」
鳥什丸の視線と震えた指先を見て咄嗟に悟った坂田は、配下達に口を覆えと命じた後に、自身も素早く首巻で口元を覆った。
坂田の命令通り、配下の者達は己の身に着ける首巻で口を覆うと、痺れて動けない者達にも手早く同様に施した。
仲間が全員覆ったのを確認した鳥什丸も、腰に巻く市松模様の布を器用に帯から外すと口元を隠した。
誰もが毒に蝕まれ怯む中、万雷だけは首巻で口元を覆う事はせずに、仏像の様に口を固く閉じ、両腕で力強く薙刀を構えた姿勢で、瞬きも行わず鋭い眼光で野衾を睨んでいる。
万雷の臆する事のない気迫を垣間見た仲間達は、毒で痺れる身体を奮い起こし姿勢を正すと、次に来たる野衾の攻撃に備えた。
毒が身体に回るのを待っていた野衾は、口から涎を垂らし、餌を待ち侘びる目付きで一同の様子を眺めていたが、
尾を立てて更に後ろに身を引いた様は、漸く一同を狩る段取りが整ったようだ。
「もう遅い。貴様ら皆、ワシの腹に入ったも同然だ」
甲高い笑い声を発して、翼を広げ銀杏の木から飛び立った野衾は、毒霧を撒き散らし、坂田を狙い急降下する。
野衾の左翼は歪に折れ曲がり、右翼のみで浮力を保つ不格好な降下だが速度はあり、傾いた身体は正確に坂田の頭上へと迫った。
刀を頭上へと掲げ上段の構えにて、野衾を迎え撃とうとする坂田だったが、野衾は坂田の頭上に降り立つ事はなく。
眼前に迫った三本の苦内に驚き、身を翻すと不器用に翼を折り畳んで、急遽誰もいない地面へと着地した。
そして自身の身体から発する霧を止めると、視界を覆う靄の中から迫り来る、鬼面の男を睨んだ。
鬼面の男は鞘に納刀したままの刀を、野衾の喉目掛けて突き殺そうと刺突を繰り出した。
首をへし折られまいと、野衾は地面を蹴り男の攻撃を躱し、翼の機動を器用に生かして、隙だらけの左側面から鬼面の男に襲い掛かり。
男は野衾の鋭い牙と爪を鞘で受け止めたが、同じ身幅もある獣の体重と怪力が身体に加えられた為に、男の足は地面を削って僅かの距離後ろに後退した。
そのまま男の喉に噛み付こうと首を伸ばした野衾だったが、鬼面の奥から覗く鋭い眼光に底知れぬ恐怖を感じ、男の身体を飛び退いて距離を取った。
「動けるなど…!貴様真に人間か…!?」
目を見開き声を上擦らせ、動揺して男へ問う野衾を一蹴するかの如く、鬼面の男は腕を突き出し、刀身を真下に下ろし構えを変えた。
「語らう気はない。お前はここまでだ」
男は言い捨て、柄を握る親指で漆黒の鞘を弾き。
鯉口を切った鞘は自身の重みでするりと地面へと落ち、刀身が姿を現したと同時に、その刃からは黒炎が舞い上がった。
顔を覆わねば耐えられぬ程の炎の熱に、坂田達は顔を背け、己の腕で吹き付ける熱波を遮って何とか一同は視界を再び鬼面の男へと戻した。
黒炎は轟々と、刀身そして男の左腕に纏わり炎を滾らせているが、男の着衣は一切燃えていない。
しかし、坂田の耳には何かが焼け、炭が弾ける様な奇怪な音が伝わっていた。
「図に乗るな !! 血を吸い尽くしてやるッ!!」
刀を真横に振り炎を散らして構え直す鬼面の男に、野衾は僅かに怯んだが、負けじと野獣の形相で鋭利な牙を剥き出しに地を駆け、鬼面の男へと襲い掛かった。
そして、翼を広げ男に飛び掛かろうとした、その瞬間。
野衾の左頬に、小芋程度の小振りな石が命中した。
差して痛みもない平凡な攻撃だが、野衾の大きな瞳は、石が飛来した方角へ自然と動き。
その瞳には、石を投げた姿勢で唇を結び、怒りを浮かべて野衾を見詰める少女の姿が映る。
少女の背後にある銀杏の根元の裂け目に覆い被さっていた瓦礫は、子供が通り抜けられる程度の隙間のみ脇に除けられ。
少女はずっと、銀杏の木の裂け目に身を隠し、野衾との戦いを固唾を呑んで見守っていたのだった。
石に気を取られた一瞬の隙を逃さず、鬼面の男は瞬時に野衾へと距離を詰め、黒炎を散らし一閃の太刀で獣の身体を切り裂いた。
一瞬の攻防に驚愕し、目を丸くする坂田一行と同様に、野衾は目を見開いたまま、その首はもう宙を舞っている。
傷口は炎で焼けた為に血飛沫は飛び散らず、ただ茫然と地に落ちるその時まで、野衾は少女を見詰めていた。
「いた………見付けた…ッ!」
掠れた声でそう切れ切れに呟いた野衾の首は、分かたれた身体とは別々の位置を跳ねて転がり。
やがて空を仰ぐ形で静止した首は、赤黒い血を地に染み渡らせた。
野衾を一瞥し、鬼面の男は鍔を固定する切羽と鞘口を合わせ納刀すると、
男の腕に纏う黒炎や野衾を焦がす炎は、同時に跡形もなく姿を消した。
「ここから逃げて !!」
戦いが終えたと誰もが気を緩め、一同が刀を降ろしたのも束の間。
少女は小さな身体で、持てる有丈の力で一同へと叫んだ。
周章狼狽する少女の徒ならぬ様子が理解出来ず、
唖然と少女を見詰めていた坂田達に、体を失い絶え絶えである筈の野衾の勝ち誇った笑い声が吐き捨てられる。
「やれぇ…!! 喰らい…尽くせ…ッ!!」
天を仰ぐ野衾の首は、口から血潮を吹き渾身の力で天へと叫び。
――その突如、示し合わせたかのように地揺れが起こり、影響された辺りの家屋が小刻みに揺れ始める。
何かが這うようなおどろおどろしい轟音は、地揺れと共に一同の元へと忍び寄り、すぐ間近に迫って来ているかに感じられた。
五ノ項へ
作者:嵬動新九 本文記載:2025/01/11
注意事項をお守りいただいて有難う御座います。コピーペースト、スクリーンショットも禁止しております。宜しくお願い致します。
※All rights reserved.Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.
※本站內所有图文请勿转载.未经许可不得转载使用,违者必究.