第一章 蠱獄
五ノ項
ほんの寸刻、地揺れが収まったと思いきや、事態は一変する事となった。
耳を劈く笑い声と共に、銀杏の木に隣接した小屋を破壊して、巨大な蛇が突如姿を現したのだ。
そして大蛇は、数々の家屋を押し潰しながら20mを優に超える巨体を地中から這い出して、逃げる少女を尾で華麗に捕らえた。
「きゃあああッ!!」
少女の身体は高々と持ち上げられ、為す術のない少女は悲鳴を上げ宙を掻いた。
予想だにしていなかった新手に坂田一行は戸惑い、大蛇の巨体と宙に抱えられた小さな少女を、愕然と見上げる事しか出来ない。
「漸く見付けたぁ!! 見付けたぁ!! 極上の馳走じゃあ !!」
翡翠色の鱗を輝かせ、身を捩り喜ぶ蟒蛇の大笑が通りに響き渡り、坂田達はその声量の大きさに顔を顰める。
「何だと…!もう一匹いたのか…!!」
巨大な蛇を見上げて口惜しげに呟いた坂田の横で、
万雷は関心した面持ちで蟒蛇を見上げ、大口を開けて歓声を漏らす。
しかし万雷とは対照的に配下の者達は、人家を遙かに超える蟒蛇の巨体に狼狽え、坂田を巻き込んで後ろへと後退ってしまう。
「で…でかい…!!」
響めき怖気付いて後退する男達と擦れ違いに、鬼面の男は前方へ歩を進める。
蟒蛇の巨体に動ずる事なく、ゆっくりとその巨体の目下へと向かって行く鬼面男に、坂田一同は些か呆気に取られ男の背を見詰めた。
「……イド…」
野衾の口から僅かに発せられたイドと名を呼ぶ声に、喜び湧いていた蟒蛇は雷に打たれたかの様に寸秒硬直したが、直ぐに身を動かすと巨大な目で野衾の姿を探した。
そして捉えた野衾の変わり果てた姿に、蟒蛇は再び身を硬直させ、徐々に全身を震わせる様は衝撃に打ちひしがれて見える。
野衾の胴体は黒炎で燃え滓となり、もはや首は命尽きる間際なのか目は半分閉じかけている。
大きな鼻と口からは血が流れ、何かを伝えようと虚しく口を動かす度に、血が口外へと波打って流れ出る様は、人の生き血を吸いそれを糧として生きていた妖怪には惨憺な最期である。
「すま…ん…すまん…な………。お前…だけ…で…も……ここ……から――………」
言い終える途中で野衾は口を薄く開いたまま果てた。
「片羽 !!」
巨大な目に涙を溜め、何度も野衾の名を叫び、骸へと巨体を滑らせる蟒蛇に坂田一同は驚愕した。
それは不意に迫る蟒蛇の巨体に轢き殺される既の所で躱し、
難を逃れたのもあるが、仲間の死を悲しみその骸に駆け寄るという意外な行動を目の当たりにした喫驚だった。
数々の妖怪と争闘し、それなりに知見がある一同ですらも、この様な仲間意識を持つ蟒蛇の行動は珍しく、
野衾の名を泣き叫び、骸を胴で囲い抱きしめる形で慟哭する蟒蛇の様子に、坂田一同はどうにも面食らってしまう。
当然ではあるが蟒蛇は元来、この巨体であった訳ではない。
嘗て子蛇であった蟒蛇は、子供の悪戯で涸れ井戸へ落とされ、幾日も幾日も飢えと喉の渇きに苦しんだ。
このまま涸れ井戸の中で、命尽き最期を迎えるのだと諦めていた蟒蛇へ、野衾だけが己の食べ残しを涸れ井戸へ投げ込んだのだ。
そうして蟒蛇は餓死の危機を、日々野衾が餌を涸れ井戸へ運んだ事で生き存える事が出来た。
だからこそ、野衾に危険があれば蟒蛇は庇い、無二の友として固い絆で結ばれている。
翼が折れ飛べない野衾と、涸れ井戸から抜け出せぬ蟒蛇はこうして幾度も助け合い、共に困難を乗り越えてきた。
いつか共に、この村を出て二人で自由に生きてゆくのだと、幾年も費やし涸れ井戸の中からやっと脱したあの時の喜びを――
鬼さえ現れなければ、蟒蛇と野衾は果たすことが出来たのだ。
こうした野衾との日々が、蟒蛇の涙を止め処なく溢れさせていた。
「貴様等よくもッ!! 許さぬ !! 八つ裂きにしてやるッ!!」
怒り狂う蟒蛇のあまりの剣幕に、事情の知らぬ男達は困惑し、ただ落ち着きなく蟒蛇を見上げるのみである。
「その童を放せ。大して腹は満たされんだろう」
蟒蛇の怒声を物ともせず、鬼面の男は涼しい声色で蟒蛇へと呼び掛けた。
「誰が片羽を殺したッ!!? そやつを一番に喰ろうてやるわ !!」
頭に血が上った蟒蛇には、鬼面男の言い放った言葉が聞こえてはおらず、執拗に怒鳴り散らして一人また一人と巨大な瞳で、野衾を殺めた人物が誰なのかを探る。
そして蟒蛇の瞳が、遂に万雷を捉えたその時。
万雷は鬼面男の背を指差し、何かを言いたげに蟒蛇へと目配せを始めた。
それを眺めていた数人の配下達も、万雷に倣って腕を真っ直ぐに伸ばし鬼面男の背を指差す。
赤く腫れた頬を押さえる坂田は、視線の端で捉えたその光景に、一瞬信じられないものを見たという面相で万雷を二度見したが、男から受けた頬の痛みを思い出し、見て見ぬ振りをしてすぐに蟒蛇へ視線を戻した。
「貴様かぁあ…!!」
「ほぅ勘が良いな」
万雷達の誘導で、蟒蛇は鬼面男の目前まで首を下げ、長い舌を振り乱し憎々しげに男を睨む。
蟒蛇の鼻息で男の着衣は激しく靡いたが、やはり鬼面の男は動じず、味方に売られた事にも気が付かぬ様子で、堂々と正面から蟒蛇を見詰め返した。
「お逃げ…ください…!みんな…食べられて…しまいます…!」
胴を捕らえられ、恐怖で弱々しく言葉を発した少女によって、蟒蛇は唐突に正気を取り戻した。
友を殺され怒りに我を忘れていた筈が、少女が口を開いた事でその存在を思い出し、蟒蛇は鬼面男から目を逸らし遠ざかると、尾で宙吊りに捕らえる少女へと大口を近付けた。
少女は眼前に迫る蛇の頭から、少しでも距離を取ろうと咄嗟に身を後ろへと引き、恐怖から必死に両腕をじたばたと暴れさせる。
「そうだ…、忘れる所であったわ。――労して手に入れたのだぁ…!」
語り終えてもいない中途半端な状態で、蟒蛇は突如少女を上空へと放り投げた。
少女は悲鳴を上げ、その小さな体は高々と大空へ舞い上がり、やがて重力によって蟒蛇の元へと垂直に落下してゆく。
「まずはこの餓鬼を喰わねばな !!」
己の頭上へと落下する少女を喰らおうと、蟒蛇は真上に首を向け顎を外し、巨大な虚の如き大口で、少女の小さな体が自然と口の中へ収まるのを待った。
大蛇の口内へと落ち行く最中、死に抗う力無き少女は恐怖に体を丸め、両眼を固く閉じ死にたくないとただ願い。そしてその祈りが通じたかの様に、少女の耳に微かに鈴の音が届いた。
蟒蛇は突如悲鳴を上げ、頭部を左右に振り乱し身を捩った。
痛みに叫び、身を悶えるその度に、数滴の血液が辺りに飛び散る。
上空を舞う少女には、蟒蛇に何が起こったのか見当も付かないが。
下で始終を静観していた坂田達には、蟒蛇の体を駆け登り、大腿の防具に忍ばせていた苦内を、蟒蛇の右目に投じた鬼面男の一連の動作が、しっかりと捉えられていた。
視界の狭い蛇には下方から来る苦内が見えず、抵抗もなくその刃は蟒蛇の眼球に突き刺さった。
それが因で、蟒蛇はこうして暴れ狂うに至ったのだった。
鬼面男の働きで、少女が蟒蛇の口内へ招かれる事は回避されたが、少女の身体は真っ逆さまに地面へと落下してゆく。
鬼面の男は蛇の体を蹴り跳躍すると、空中で少女を受け止め、苦痛に暴れ回る蟒蛇の胴体を器用に飛び移り地面へと着地した。
「きっ貴様ぁああッ!! よくもぉ!! 死ねぇ!!」
体を撓らせ鬼面男を叩き潰そうと、蟒蛇は再度激昂し暴れ狂った。
しかし軽快に駆ける鬼面の男は、既に蟒蛇の近傍を離れ、太鼓橋まで後退している坂田一行の間近まで辿り着こうとしている。
そして少女を坂田へ引き渡そうと、鬼面男は身を前に乗り出していた。
そこへ蟒蛇の強大な尾が、叩き付けられる。
両腕を伸ばし、少女を鬼面の男から受け取ろうと近寄った鳥什丸の肩を、咄嗟に坂田は掴み後ろへ引いた。
それがなければ、この少年の命はなかっただろう。
蟒蛇の尾は少年が身を乗り出していた場所を深々と抉っていた。
危うく潰されかけた鳥什丸と坂田は、尻餅を付いて顔を上げるまでの僅かの間に姿を消した、鬼面男と少女は無事なのかと忙しなく二人を探した。
そしてすぐに、危険から逃れる為に蟒蛇の死界である背後を越え、村の出口の方角へと駆ける鬼面男の姿を見付けた。
坂田に少女を託すのを諦め、少女を安全な場所へと避難させるつもりなのだろう。
怪我もなく無事であったと、鳥什丸が安堵したのも束の間。
蟒蛇が錯乱して鞭のように振り回される尾が幾度も命を危ぶませ、坂田一行は悲鳴を上げながら各々死に物狂いで逃げ惑った。
鬼面の男は、周囲をこれ以上巻き込んでしまわぬよう。一行からより遠ざかろうと更に膝に力を込めた。
――しかし、己の脚は意思とは反対に膝を折り、受け身も取らず鬼面の男は地面に頭から倒れ伏した。
「お侍さま !?」
胸に大事に抱えられた少女に怪我はなく、男のただならぬ様子に驚愕し、その身を案じた。
男は呻き声を上げながら必死に身を起こそうとするが、再度額を地面に横たえ、立ち上がる事は叶わない。
何処か身体に怪我を負ったのだと察した少女は、覆い被さる男の体から這い出そうと身を動かしたが男の体は重く。
潔く抜け出す事を諦めた少女は、鬼面男の身体の傷を手探りで探した。
荒い息遣いと心音は早いが、男の身体の何処にも傷など見当たらない。
しかし少女の耳には確かに、炭が弾け罅割れたかの様な乾いた音が、男の心音と混ざり合っては胸の奥から聞こえてくる。
鬼面の男が蟒蛇の注意を引いた事で攻撃が和らぎ、余裕の出来た坂田は再び鬼面男の姿を探した。
そして遠目に男が倒れ伏す様を認めると、迫る危険を知らせる為に、声を張り上げ男を奮起させた。
「何をしている !! 立て !!」
坂田の一喝を受け、やっとの思いで身を起こした鬼面の男だが、時既に遅く。
蟒蛇の胴体は男の四方を取り囲み、とぐろを巻いた中心の空から男を憎々しく見下ろしている。
蹌踉めきながらも立ち上がる鬼面男を待っていた蟒蛇は、胴で形作った輪を急速に縮め、少女諸共男を締め付けようと身を捩った。
螺旋状に巻かれた胴に四方を塞がれ、逃げ場のない鬼面の男は、蟒蛇が身を動かした際に開いた隙間から、此方に駆け付ける坂田と目が合った。
その一瞬を逃さず、鬼面の男は胸に抱えていた少女を力一杯投げ捨てる。
「きゃ!お侍さまッ!!?」
少女の身体は上手く大蛇の体の隙間を擦り抜け、蟒蛇に絞殺される危険は一先ず回避された。
しかし、突然投げ捨てられた少女の体は、背中から地面へと無防備な姿勢で落下し、受け身を取ったとしても、恐らく身体の何処かへ怪我を負ってしまうだろう。
「うぉおおおお !!」
不意に合図もなく少女を放り投げられ、坂田は思わず雄叫びを上げ全速力で走り、地面に落ちる寸前の少女を捨て身で受け止める事に成功した。
咄嗟の判断が功を成し、少女は傷一つ負う事はなかったが、代わりに坂田の羽織や袴は地面を擦り、悉く砂で汚れてしまっている。
己が受け止めねば少女は怪我をしていたと鬼面の男へ悪態を吐きたい所だが、蟒蛇の追撃を喰らう恐れがあった為に、坂田は託された少女を抱えて素早く後方へと下がった。
配下の者達に迎えられ、一先ず安全といえる地点まで後退した坂田は、漸く鬼面男の身はどうなったのか、少女と共に巨大な蟒蛇を見上げた。
六ノ項へ
作者:嵬動新九 本文記載:2025/01/14
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