第一章 蠱獄
六ノ項
蟒蛇の尾に拘束された鬼面の男は、どうやらまだ死んではいない。
男の身体は上空に引き上げられ両脚は力無くぶら下がり、左腕は尾の先端で捻り上げられて、完全に動きを封じられている。
身体に螺旋状に巻き付く蛇の剛力に、鬼面の男は抵抗せず、ただ風に煽られ俯いていた。
男が抵抗しないのも当然と云える。
締め上げられた大蛇からは、どれ程屈強な肉体と怪力を持つ者であっても、自力で脱出など不可能な上に、暴れれば体力の無駄になってしまう。
蟒蛇は捕らえた男をどう甚振ろうかと、目を細め二股の舌を激しく波打たせ、今し方の激情は何処へ行ったのか見違えるほど上機嫌である。
その細められた巨大な瞳は、哀れな男の姿をじっくりと精察していたが、男の右肩辺りに視線を止めると、蟒蛇は顔を歪め突如吹き出した。
「愚かな!隻腕でわしに挑むとは。童一人救う事もままならんではないか!」
吹き荒ぶ風に踊り舞う鬼面男の合羽は捲り上がり、露わになった男の右腕を蟒蛇は声高らかに嘲笑した。
蟒蛇が言い散らした通り、鬼面の男は右腕の肘上から下までを失っており、雪輪文様の入った肘丈の袖だけが、虚しく風にはためいている。
地上から男を見上げる坂田一行も、左腕のみで武器を扱っていた鬼面男の事由が、やっと腑に落ちた事だろう。
しかし、男へ同情の念を向けた坂田達とは異なり、蟒蛇は小気味良いという有様で頻りに声を上げて笑っている。
憎むべき相手の不幸が、痛快で仕方がないという様子だ。
「隻腕一人に手間取る蛇がほざくなよ」
突如鬼面男が放った一言に、場はしんと静まり返った。
蟒蛇に捕らえられ、身を拘束された状態で機嫌を損ねれば、今度こそ男の命の保証はないのではないかと、一部始終を眺めていた坂田一行は固唾を呑んだ。
その緊迫感から、言葉を発する者は誰一人いない。
やがて蟒蛇は深く鼻息を吐き、意外にも大人しいその姿は、己の怒りを静めているとも捉えられるが、静かに、だが確実に怒りを増長させている事は、坂田一行にも見て取れる程であった。
「…これからだ。貴様だけはたっぷり甚振って苦しめてやる」
声を荒げずにそう宣言した蟒蛇は、鬼面男の身体に巻き付けている尾を、主張とは真逆に緩めた。
自身の襟巻にしている白犬の毛皮を呑気に眺めていた鬼面の男は、緩められた一瞬を好機とみて脱出しようと身を動かした。
が、蟒蛇は男を解放する気など毛頭なく。
一度尾を緩めたのは男をより苦しめる為であり、鬼面男の左腕を解放した蛇の尾は男の胸へと素早く巻き付き、そして更に男の頭部に尾を絡め、蟒蛇は容赦なく男を絞め上げた。
顔と胸を絞め付けられた男は苦しみのあまり、唯一自由な右足と左腕を必死に暴れさせ抜け出そうとするが、
藻掻けば藻掻くほど、自在に筋肉を動かせる蛇の体は、男の身体へと深く食い込み、血液を止め酸素を奪ってゆく。
男の悶え苦しむその様は、年端のいかぬ少女にはあまりにも惨たらしい光景であり、少女が上げた悲鳴は大通りに幾重にも木霊した。
尾に捻り絞められ男の身体が軋み、骨が砕けるよりも先に、男が身に着ける物の具に限界が訪れた。
鬼面男の身体からは、木が割れるような硬い何かが砕ける異音が生じ、赤い塗料の付いた木片がぱらぱらと、男を覆い隠す蛇の尾の隙間から、地へと落ちていった。
装備が砕け散るその凄惨な音もまた、大蛇の力の壮絶さを物語っている。
蟒蛇が本気を出せば、鬼面の男など簡単に捻り潰せる筈なのだが、男に生地獄を味わわせたいが為に、蟒蛇は男が窒息せぬように時々は尾を緩め絞めるを繰り返していた。
そうして鬼面の男が藻掻き、鱗を引っ掻いて苦しむ様を、蟒蛇はさも満足げに眺め舌を踊らせた。
そして、そろそろ力を強め、男の体中の骨を砕いてやろうと、残忍に顔を歪ませた蟒蛇の首に、突如一本の刀が突き刺さった。
ただの刀くらいでは、蟒蛇の巨体に傷は付いても致命傷には到底至らない。
だが首に深々と刺さった刀に蟒蛇は仰天し、時を待たずして飛来したもう一本の刀を咄嗟に躱すと、蟒蛇は刀を投じた者達へ目を向けた。
「者共やれ !! 得物を全て投げろ !!」
蟒蛇に有無も言わさぬうちに、坂田は大蛇へ掌を掲げ猛々しく号令し、配下達は雄叫びと共に、次々と己の刀や槍を惜しみなく蟒蛇へと投じた。
いつの間に村を物色したのか、鎌や鉈、包丁などを集めて蟒蛇へと投じる者すら中にはいる。
だが万雷は、自分の愛用の薙刀を大切に肩に抱え、退屈そうに蟒蛇の巨体を眺めているだけである。
刀、槍などの刃物が、続々と翡翠色の鱗を突き破るが、どれも蟒蛇を弱らせるには至らない。
しかし矮小な人間の取るに足らぬ攻撃にも関わらず、蟒蛇は男達の気勢に気圧され、躱しきれない得物の数々にたじろぎ、身を曲折させてしまっていた。
「ええい !! 小賢しいッ!! ――此奴がどうなってもよいのかッ!!」
遂に耐えかねた蟒蛇は、捕らえている鬼面男を鼻先に突き出し、得物を投じる男達へ叫んだ。
突き出された鬼面の男を見た配下達は、途端にぴたりと動きを止め、得物を構えた姿勢のまま、全員まるで時が止まったかの様に身を停止させた。
蟒蛇の盾にされた鬼面の男はぐったりと身動ぎもせず、力無く垂れ下がった手足だけを見れば、命尽きたようにも思われる。
男の弱り切った姿を目の当たりにし、坂田の眉間の皺は更に深々と刻まれ、その表情は仲間を人質に取られた、姑息なやり方への苛立ちを露わにしているかに見える。
しかし静まり返った一行を見て、これで手出しは出来まいと内心胸を撫で下ろした蟒蛇に、予想を覆す反応が返ってくる事になる。
「知らんッ!! 其奴も覚悟の上であろう !!」
声を大に吐き捨てた坂田の一声に、攻撃を止める所か、男達は一切の迷いを捨てて、更に勢いを増して得物を投じ始めた。
思惑が外れ、仲間の命をも厭わぬ目を疑う行動に、蟒蛇は呆れを通り越した様子で巨大な口を開き、顔に当たらぬよう必死に男達の刃物を躱した。
坂田達の厭わぬ行動に驚愕したのは蟒蛇だけでなく。
人質とされた鬼面男の足に、投じられた鉈が一本掠り、男の具足に切れ目が入った。
それを目の当たりにした少女は背筋が凍り付き、坂田の袴を引っ張って涙混じりに鬼面男の助命を懇願した。
「おっお願い !! やめて !! お侍さまに当たっちゃう…!!」
少女の必死の訴えであろうと坂田は意に返さず、険しい面持ちでじっと蟒蛇を見上げ、対峙する敵からは決して視線を外すことはない。
「なっ…なんと醜い !! だから人間は嫌いなのだ…!! この塵芥共が――…」
坂田一行の勢いに呑まれ、動揺のあまり首を左右に揺らして後退する蟒蛇は、ふと尾の先端に鋭い痛みを感じた。
投じられた得物が、鱗を傷付けたにしては、痛みが鋭く焼けるように熱い。
異変を感じて直ぐさま、蟒蛇は拘束している筈の鬼面の男へと視線を向けたが、男を締め上げていた己の尾は綺麗に真一文に切断され、切れた尾の先端は蜥蜴の尻尾を彷彿とさせる様で地面に転がっている。
地に横たわる尾は、体の一部であった事を疑うくらいに、いつ斬られ、己の身に何が起こったのかを、蟒蛇はすぐには理解出来なかった。
焼き切られた胴の断面からは、火傷が出血を抑えた為に少量の血液のみが流れ、その傷口を一瞥して漸く、蟒蛇は鬼面の男の存在を思い出した。
そして忙しなく全方位に首を回し、鬼面の男の姿を探すが、地上には投擲の武器を出し尽くした男達が疲労困憊に蟒蛇を見上げるばかりで、鬼面男の姿は何処にもない。
――どうやって抜け出した、何処へ消えた。
考え巡らせ動揺する蟒蛇は、突如自身の頭上に重みを感じた。
蛇は元より視力が優れておらず、また視覚範囲が狭いため、前方以外の視認が困難である。それ故に蟒蛇は己の頭部に感じた重みの正体を、目視で確認する事は出来ない。
だが己の頭に降り立ち反撃を加える者は、あの鬼面の男しかいないという確信が、蟒蛇に焦燥の声を漏らさせた。
「な…っ!!」
蟒蛇が予期した通り、鬼面の男は既に蟒蛇の頭上で抜刀し、左腕に黒炎を纏い渾身の力を刃に込めて、今まさに蟒蛇へと刃を振り下ろそうとしている。
男の左腕の黒炎は大きくうねり、振るえと言わんがばかりに刀身に宿る炎は爆ぜた。
身に危険を感じた蟒蛇は、男を振り払おうと咄嗟に首を振り乱した。
しかし蟒蛇よりも速く。男は大蛇の体を蹴り、宙に跳び上がった。
鬼面の男が宙に逃げた事で、己の勝利を確信した蟒蛇は顎を外し、黒炎を散らし降下する男を喰らおうと、上空へと牙を剥いた。
だが好機であるにも関わらず、蟒蛇は硬直する。
猛々しいまでの黒炎を纏い、亀裂の入った鬼面の隙間から覗かせた鬼気迫る男の容姿は、自身の鱗に悍ましい血の手形を付けた――
あの恐ろしい。炎のような赤い髪を靡かせた、鬼の記憶を思い起こさせたからに他ならない。
「…鬼……ッ」
恐怖に慄き力無く呟いた蟒蛇に、鬼面の男は容赦なく刀を振り下ろした。
たった一太刀で、蟒蛇の首を斬り落とした黒炎は留まらず、更に勢いを増して蟒蛇の体を切り裂き全身を駆け巡った。
その壮絶な炎の熱量に、坂田達は顔を覆い。
痛みと灼熱に悶え苦しみ叫ぶ蟒蛇の断末魔は、静寂な村により悲痛に響き渡る。
やがて体を4つに切り裂かれた蟒蛇は地に倒れ、苦悶に歪めた大口を開いたまま、地に降り立った男の姿を、白濁した瞳に映した。
男がとどめを刺さずとも、村中の人間を意図も容易く呑み込んだこの大蛇は、ただ首を横たえ己の命が燃え尽きるのを待つのみだろう。
蟒蛇を焦がす黒炎の爆ぜる音が、廃墟と化した村にまた物悲しく反響し。
巨体である蟒蛇を、一本の刀のみで仕留めた男に、坂田一行が底知れぬ恐怖を抱き、愕然とした面持ちで、誰一人として勝利の喝采を鬼面の男に贈る者はいない。
しかし坂田は、人間が大蛇を討ち果たした事実に驚いているのではなく。
鬼面の男が左腕に持つ、黒炎を纏う刀を食い入るように見詰め、その在処にただ驚倒していた。
「その刀は…!」
坂田がそう呟いたと同時に。
鬼面の男は刀を手の甲で器用に回し、切っ先を鞘の入り口である鯉口へと滑り込ませる。
片腕で弧を描き納刀した刀は、名残惜しく炎を少し巻き上げると、やがて鞘の中に鎮まった。
鬼面男の腕からは煙が立ち昇り、ぱきっと炭が爆ぜる音が、また一度大通りへと響く。
その不審な音に、再び坂田は眉を顰めるが、男の顔を覆う鬼面が音を立てて足下へ崩れ落ちた事で、注意はすぐに其方に逸れた。
面を失い、露わとなった男の青白い肌を血液が滴り。砕けた面の破片が頬を傷付けて流れ出た血を、男は簡単に指先で拭う。
そして漸く、俯けていた顔を上げると、生気のない虚ろな面差しで坂田を見据えた。
「な !? 何だッ!? その顔は !? 貴様、鬼か !!」
想像だにしていなかった男の容姿に万雷は驚愕し、薙刀を男へ突き付け動揺を露わにした。
一同は響めき、坂田以外の配下達は総じて、男の顔立ちを見て面食らっている。
男の頭髪を隠していた覆いは、捲れて背に垂れ下がり、面を失った事で今や男の容姿は全てを曝け出していた。
金色に輝く髪に、鼻筋は高く。
青ざめたように白い肌と碧眼の瞳を持つこの男は、蟒蛇を燃やす黒炎に照らされ、より一層人ならざる者に思えてならない。
血の気が失せ、亡霊の様に虚ろに佇む男を見て、恐れを抱くのも無理はないが。
無表情に、ただ静かに立ち尽くすその様は、例えるならば人形のような、魂の宿っていない無機物である印象すら一同へ与えてしまう。
そして予想に反し男は若く、恐らくまだ二十も齢を重ねてはいないだろう。男の年齢も一同が驚いた理由の一つでもあった。
やがて男は一歩坂田へ歩み、形の整った唇を開き言葉を発した。
「無貌の鬼を 知らぬか?」
戦いに身を投じていた先程とは、別人とも思える物静かな――かつ意志の籠もった声色で、男は坂田へと尋ねた。
しかし、男の問いに答える者は誰もおらず。
目の前の碧眼の瞳を持つ男を、坂田一同は混乱の面持ちで見詰め、沈黙だけが延々と流れてゆく。
蟒蛇を焼き尽くす黒炎が、男の金色の髪と青い瞳を不気味に映し。
坂田と碧眼の男は、互いを推し量るが如く見つめ合い。
こうしてまた、鬼狩る者達は邂逅を果たした。
一章 完
二章へ
作者:嵬動新九 本文記載:2025/01/18
一章はこれで終わりとなります。ここまでご一読くださり有難う御座いました。
物語は二章へとまだまだ続きますので、お付き合い下さると嬉しいです。
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