第二章 燠
一ノ項
金色の髪は風に揺らぎ、碧眼の瞳は虚ろに坂田を見据えている。
「無貌の鬼を 知らぬか?」
「…何だと…?」
碧眼の男の放った言葉に、坂田は思わず沈黙を破った。
金の髪の男は、眉を顰めて訝しむ坂田をじっと静観し、己の問いの返答を待っている。
しかし警戒心からか、坂田は問い掛けには応じず、碧眼の男が再び口を開くまで沈黙を貫き、相手の出方を窺うと決めたようだ。
こうして両者探り合うかのような静寂が、再び訪れるかに思われた、が――。
息絶えたかに見えた蟒蛇の眼光に殺意が宿り。
胴を斬り落とされ首だけになっても尚、地面を這い碧眼の男を噛み殺そうと、男の左後方から鋭利な牙を剥き出し、男へと襲い掛かったのだ。
黒炎の火花を散らし抜刀した男は、身体を大蛇に向ける事もなく。
蟒蛇の眉間に刀を投じ、その額を貫いた。
けたたましい黒炎を爆ぜ、蟒蛇の首は燃え上がり、耳を劈く断末の叫びを発し、のた打ち回った。
炎に包まれ悶え、暴れ狂う蟒蛇は、徐々に勢いを落とすとやがて倒れ伏し、苦痛に顎を歪ませ長い舌を地に垂らした。
最期に一矢報いようと意地を見せ、死に足掻いた蟒蛇だったが、これ以降再び首を起こし男へ襲い来る事はなかった。
眉間に突き刺さった男の刀は、蟒蛇が息絶えた後も、その肉を黒炎で焼き尽くし灰燼へと変容させてゆく。
眼前で繰り広げられた光景に、絶句する坂田一行の背後から突如、建造物が崩壊する轟音が轟いた。
音に驚愕し咄嗟に一同は振り返ると、後方にあった赤い太鼓橋の既に半分が倒壊しており。
形を保っていた太鼓橋の半身も跡を追うように忽ち潰え、ばらばらに崩壊した橋の木片は土煙を上げて川へと落ちた。
橋の役割を成していた朱塗りの木片は、落ち葉と共に川に流され、何処までも流れてはいずれ海へと辿り着くだろう。
何故橋が独りでに崩れ去ったのか、太鼓橋が崩壊した土煙を、愕然と眺めていた坂田一行だったが、素性の知れぬ男に背を向けた危うさを思い出し、直ぐさま碧眼の男へと向き直った。
坂田達が目を離している間も、男はその場を全く動いてはいなかった。
青い瞳で坂田を一心に見詰めるこの男に、怪しい行動を起こす気配はやはりない。
やがて碧眼の男は、身振りがあれば伝わり易いと考えたのか、長くしなやかな指先を顎まで運ぶと、坂田へ問うた。
「無貌鬼だ……顔の無い」
「ひぃッ」
指先を己の頬に触れて呟いた碧眼の男の土気色の顔と、感情を読み取れぬ虚ろな表情が男の不気味さを一層増した為に、恐れをなした配下の者が一人、慄いた声を上げた。
男の奇異な風貌と、顔の無い鬼という言葉に、一同は無意識のうちに己の刀に指を添え、緊張で唾を呑み込む者もいる。
それだけに鬼という異形はこの国では恐れられ、鬼の暴虐から人々を守禦せし鬼狩りは、古より今世へと移り変わろうと、一度も絶えた事はないのだ。
一行の恐れを抱いた反応を見て、碧眼の男は目を伏せると、自身の頬に触れていた腕を力無く下ろした。
「鬼だと…? いやそれより…、貴様…それを何処で手に入れたのだ…!」
尋ね返す坂田に、碧眼の男への恐れはないが、鬼という異形よりも、蟒蛇の死骸に突き刺さる、黒炎を滾らせる刀を重んずる様子である。
蟒蛇の骸に突き立てられた男の刀は、轟々と唸る黒炎と同様に、その刀身は澄んだ純黒であるが、柄に取り付けられた鍔や鵐目は、まるで血と鉄を混ぜたような紅い、朱殷に近い色をしている。
刃文は乱れ刃とも、湾れとも表現される波の様にうねる曲線であり、刃文が二重に重なって見える二重刃と云われる文様が、はっきり浮かび上がっている。
それがこの刀が特異であると語り継がれる所以の一つである事は、刀に精通する者ならば一目で理解出来るだろう。
刃文は本来、光が当てられなければその文様を浮かび上がらせる事はない。
だがこの刀は、自ら発する炎と共に、刀身自体が輝きを帯びている。
そして銀色の光を放つ刃中には、くっきりと刃文が焼き付き、その意外にも穏やかに波打つ文様は、刀に滴る血の流れを思い起こさせる。
斜めに突き刺さり、黒炎を散らし輝きを帯びる黒刀は、通常の刀とは異なる凶猛と純美を確かに顕わしていた。
碧眼の男は、刀の縁由を尋ねる坂田へ応じず、蟒蛇の死骸へと歩むと、黒炎立ち込めるその骸を、眼を細めて正視した。
――蟒蛇の額に浮き出た、紅い血の手形。
右腕で擦り付けられたその手形は、太鼓橋の橋板に付けられていた左腕の手形と酷似しており。
炎に炙られようと鬼の手形は赤々と形を保ち、未だ黒炎に抗いその姿を浮かび上がらせている。
碧眼の男は、突如黒炎に腕を伸ばし、手形に突き立てられた己の刀を掴んだ。
刀柄にまで立ち上っていた黒炎は、男の腕を瞬く間に這い広がり、炎が燃え移ろうとも碧眼の男は怖じる事なく、死骸から刀を引き抜いた。
蟒蛇の死骸に纏う炎は、激しくうねるとその姿を消し、燃え尽きた骸は風に吹かれ、一瞬にして塵となった。
男の腕に握られた刀は、まだ暴れたいと言わんがばかりに、名残惜しく黒炎を荒ぶらせ、鞘へ収まるのを拒むように思える。
鞘に入れた剣先が黒炎に押し返され、碧眼の男は顔を顰めた。
そして息を整える間もなく男は呼吸を止め口を結ぶと、一気に刀身を鞘へと押し込んだ。
鞘へと完璧に刃が納まれば、忽然と黒炎は消え去り、男の左腕には再び一筋の煙が立ち上った。
「既にこの国に無かったとは…、見付からん筈だ」
坂田は碧眼の男が刀を鞘へと納める始終を静観した後に、男を見据えたまま半ば独り言を溢した。
そしてその呟きには、まだ続きがある。
「外つ国人の来航は禁じられている筈…。まさか海を渡り、今一度舞い戻るとは…――厄災を連れて……」
これから起こる未来を危惧し、渋面を浮かべ呟いた坂田を、男は青い瞳でじっと見詰め返した。
坂田は絶えず何かを思い悩んでいた様子であったが、やがて顔を引き締めると一歩を踏み出し、自身の右掌を上に向けて、男へ腕を差し出した。
「刀をこちらに貰おう。それは我等、儺斬の者しか扱う事は許されておらん」
相手へ一方的に物を差し出せなど、無遠慮で非礼だとの自覚はある。
しかし坂田には、そうせざるを得ない理由があり、己の欲を満たす為に男へと申している訳ではなかった。
真面目に諭すように申し出た坂田の表情には、騙し取ろうなどという狡猾さや陋劣を微塵も浮かべてはいない。
坂田が一切の悪意なく腕を差し出している事は、碧眼の男へ確かに伝わっていた。
が、男は坂田から目を逸らすと、その要求を拒むかの様に俯きそっと目を閉じた。
「履違えるな。それが貴く、得難いものであるから言っているのではない。
既に幾度とその刀を抜いたお前なら、この意味が分かる筈だ!」
瞼と口を頑なに閉ざす男へ、坂田はつい説得に熱が入り語気が強まった。
それでも碧眼の男の瞼は一向に開かず。俯き瞳を閉じて、ただじっと坂田の言葉を傾聴している。
「この国に足を踏み入れたなら、こちらの報に従え」
根気強く折れず放った坂田の言葉に、漸く男の瞼が開いた。
熱心に呼び掛けた坂田の説得に男がどう応えるのか、
一同は緊張の面持ちで、碧眼の男が口を開くのを待ったが、沈黙の果てに男が発した一言は、一同の予想を覆すものであった。
「人を人たらしめる為に、報いはあるのだったな。公時」
坂田一同は驚愕し狼狽えた。
公時という名は、坂田の祖父の名であり、異国から渡来したであろうこの男が知っている筈はない。
既に他界している先代の名を口にし、先程とは別人の雰囲気を纏う碧眼の男に、一同の不安と混乱は更に入り乱れた。
しかし坂田には、男の奇行に思い当たる節があり、男が此方へ言い放った際の表情やその語り癖は、紛れもなく古き知人を思い出させる顔付きだった。
言葉を詰まらせそれ以上を発する事が出来ない坂田を見て、碧眼の男は話が結了したと思い込み、卒然と坂田へ背を向け村の出口へ歩き出した。
「待たんか !! ――鳥什丸 !!」
去り行く男の背に万雷は吼えると、傍らに並び立つ少年、鳥什丸を焚き付けた。
「若。ご命令を」
鳥什丸は刀柄に手を掛け静かに前に歩み、視線は男の遠ざかる背を、まるで狩人の様に見詰めている。
その眼光は相手が刀を抜かずとも、容赦なく刃を振り下ろせる非情さと忠誠を宿しており、
坂田が刀を奪えと一言命じれば、忠実にその命を果たすだろう。
抜刀の立ち姿で主の指示を仰ぐ鳥什丸に、坂田はそっと少年の胸を腕で遮った。
「はっ」
身振りのみで退がれと命じられ、鳥什丸は従順に頭を下げると、背を屈めた姿勢のまま2歩後ろへと退がった。
「若!見逃すのですか !? 我等も咎に処されますぞ !!」
主である坂田へ躍起に進言する万雷を、坂田は首を振って制すると、気疲れた顔で深く息を吐いた。
「構わん。……もう会う事はない」
そして己の記憶に男の残影を残さぬよう、去り行く碧眼の男へ同じく背を向けると、坂田は男へ最後の情けの言葉を投げ掛けた。
「忠告はしたぞ、稀人」
囁く坂田の低語は、傍らに立つ鳥什丸の耳に消残り、憐れみを浮かべる坂田の横顔を、鳥什丸もまた憂いを帯びた眼差しで見詰めた。
碧眼の男が去り、訪れた暫しの平静に身を浸していた一同であったが、突として坂田は顔を上げると、忙しなく辺りを見回し何かを探し始めた。
落ち着かない主の様子に、鳥什丸は首を傾げ、他の配下達は落とし物でもしたのかという顔で坂田を見詰める。
「…あの童は何処へ行った?」
「あ…。さっきまで…」
坂田の足元にいた少女はいつの間にか姿を消し、坂田に釣られて配下の者達も一斉に自身の足下を確認し、少女の姿を探した。
しかし荒廃した村を幾度も見渡そうと、少女の姿はなく。
銀杏の幹に素早く身を隠したあの時の様に、少女は華麗に姿を晦ませていた。
「若ー!!」
西北の耕地のある方角から坂田を呼ぶ声が反響し、その馴染みある声に、坂田一同は揃って勢い良く首を声の主へと向けた。
息を切らせて崩れた家屋を滑り降り、遠方から駆け足で此方へ向かって来る3人の男達は、紛れもなく西北の調査に向かい野衾に襲われ命を落としたと思われていた戌亥隊であった。
顔色の悪い者が一名おり、全員着衣は少し汚れてはいるが大怪我はなく。身軽に此方へやって来る姿は、坂田一行の暗い面持ちを一瞬にして明るく一変させた。
「お前達 !! 無事であったか!よくぞ戻った !!」
全員で一目散に戌亥隊へ駈け寄り、坂田は3人の顔を一人一人確認すると、晴れやかな充足に満ちた笑みを浮かべ、合流した一番手近な男の肩を力強く叩いた。
いつもより手厚い歓迎に戌亥隊の男達は、何故こんなにも仲間が喜び弾んでいるのかと、理解が及ばず3人で顔を見合わせる。
「ええいノロマ共 !! 今まで何処に隠れていた !!」
小鳥の様にきょとんと並ぶ3人の男達を、万雷は立腹し怒鳴りつけた。
合流に遅れ、主の危機に参ぜぬ己の不面目を恥じる様子もない男達が気に喰わず、どうしても叱り付けねば気が済まないのだろう。
しかし叱責されているにも関わらず、戌亥隊はへらっと笑顔を作ると悪びれずに万雷の怒声に答えた。
「野衾に襲われて目舞ひを起こしまして!危ないから仏閣に隠れていたんです」
「いやー怖かった!皆様ご無事で何よりです!」
仲間の無事を信じていたからこそ、己の身の安全を優先したと言いたいのだろうが、武士が台頭するこの時代では、
この男達の行動は忠義を持って仕える臣下として、あるまじき行為だと非難を受けるのは当然である。
だが坂田は良くやったと満足げに頷き、咎める様子は一切ない。
そんな主の配下への甘さと、戌亥隊の反省のない態度に、万雷の怒りは余計に煽られた。
「貴様等それでも鬼狩りか !! 恥を知れい !!」
「霧が晴れました故、思い切って馳せ参じましたぞ!」
万雷の怒声を物ともせずに戌亥隊は意気込むと、一人は腕を上げて力瘤を作り、残り二人はまだ敵が潜んでいるのかと、手で庇を作り目を細めては、執拗に辺りを見渡した。
「若!無礼られておりますぞ !!」
「お前が言うな」
妖を退治したとは露知らず、的外れな言動を取る3人を指差しながら、万雷は坂田へ抗議したが、
坂田は普段の万雷の態度に思う所があるため肩を持たず、すぐさま万雷へ吐き捨てた。
「ガツンと一言申し致すべきです!」
未だ抗議し怒りに滾る万雷を見て、坂田は又もや苦言を溢すかに思われたが、意外にもその顔は綻んでいる。
「良いではないか。皆 無事であったのだ。命あることが何よりも肝要ぞ」
坂田は穏やかな笑みを浮かべ万雷を軽く諫め、幸福に包まれた晴れやかなその顔には、深く眉根に刻まれていた皺の痕すら残ってはいない。
これまでの険しい面相と一転して、この穏やかな顔立ちこそが、本来の坂田の姿なのだろう。
全員の無事を噛み締め心から喜ぶ主を見て、万雷は自身の頭をぼりぼりと掻き。その顔は未だ顰め面だが、すっかり怒気を削がれた様子で口を紡ぎ、譴責は胸に納めたようだ。
坂田の柔和な調子が場に安らぎを与え、配下達は張り詰めていた緊張を解き、肩の力を抜いて漸く一同は顔を微笑ませた。
「わ…若 !!」
戦いを終え安堵に胸を撫で下ろしていた一行だったが、突然配下の一人が上擦った声で坂田を呼んだ。
しかし配下が名を叫ばずとも、坂田は自分達を取り囲む大勢の人々の気配に、仲間よりも寸秒早く気が付いていた。
坂田達を取り囲む人の群れは、枚挙に遑がない程の群衆であり、村の風景は人々によって遮蔽され、辺りを一望する事は叶わない。
その群れは老人から子供まで齢も性別も様々だが、全員瞬きも行わず、坂田一同を食い入る様に見詰め、その眼差しは何かを訴えかけているようであった。
此方を凝視するその姿に生気が感じられないのは、この者達が命尽きた霊魂であり、生活の営みが垣間見える服装から見て、蟒蛇に食まれ犠牲になった村の人々であろう。
人々の脚は膝下から透き通り、そこからなら微かに村の風景が透けて見える。
無念を残した魂が供養されずに彷徨い、憐れにもこうして面前に現れたのだと、察した坂田の表情には新たに影が差した。
そして坂田は、刀柄を握り困惑の様子で主を庇い立つ配下達の列をそっと掻き分け、村人へと歩み寄った。
「…先程寺があると言ったな?」
「は…はい !?」
「案内致せ」
坂田は戌亥隊の一人に命じると、当然であるかの様に村人達へ深く頭を下げた。
「此度は我ら儺斬が御供養仕ります。その後、必ずや僧徒を招き執り行う故、今は曲げてお許されを…」
至誠の心を以て申し出た坂田に続き、配下達も揃って深く頭を下げる。
時の程、頭を垂れる坂田一行を、亡魂たちは虚ろに見詰めていたが、一行が顔を上げる僅かな間に、数多の霊魂達は全て姿を消していた。
応諾してくれたのだろうと、受け止めた坂田一行の視線の先には村の出口があり、怪異が解決した今ならば、もう村里へと戻される事はないだろう。
しかし坂田は出口を目指さず、村人との約束を果たす為、――
その魂を弔う為に、配下達を連れて再び村の奥へと歩み出す。
辺りには舞い散る金色の銀杏の葉と追風のみが、坂田一行の旅路を見送るかの様に吹き抜けた。
二ノ項へ
作者:嵬動新九 本文記載:2025/02/02
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